JIM-NETな人>鎌仲ひとみさん

第3回 鎌仲 ひとみ さん



  新作『六ヶ所村ラプソディー』が好評の鎌仲ひとみ監督は、CADU-JP(劣化ウラン廃絶キャンペーン)設立メンバーの一人であり、JIM-NETにも立ち上げの時から深く関わってます。
 そんな鎌仲監督に、JIM-NETウェブサイト担当の熊谷宏がインタビューしました。

(インタビュー 06年4月8日)

■ 六ヶ所村ラプソディー            K: 鎌仲 ひとみ監督   I: 熊谷 宏
I: まず新作の『六ヶ所村ラプソディー』についてお聞きしなくてはなりませんね。各地で上映が始まっていますが…。
K: う〜ん、難しい。作っている間も難しかったけど、上映していくのもすごく難しい。
たとえば戦争だと、(被害が)ハッキリわかるけれど、3月31日に稼動した六ヶ所村の再処理工場は、目に見える形で命が失われるということがわかりにくい。目に見えない被害ということの難しさがとてもありますね。(チラシの画像をクリックすると影書房サイトの上映スケジュールにとびます)
前作の『ヒバクシャ』の時は劣化ウラン弾が使われて何年も経っていたので、被害者としてのイラクの子どもたちの苦難がすでにあったけれど…。
六ヶ所村はこれから起きようとしていることを想像してもらうしかないのですが、被害者が出てしまったときには、環境の中に放出された放射性物質をキレイにすることはできない。そういう意味では、イラクの人達も、これからずっと汚染から逃れることはできない。その汚染に由来する病気を一生懸命治療しようということをJIM-NETはやっているのだけれど、ほんとうはその汚染をなくした方がいいんですよね…。
イラクの場合は、その汚染が戦争で起きた。でも日本の場合は、電気を起こすという「平和利用」のために汚染が起きようとしているのだけれど…。
ことが複雑になっているのは、こういうことだと思います。別に何としてでもプルトニウムが必要なわけではない。再処理工場が稼動しなくても原子力発電は止まらないのに、どうしてもプルトニウムを作らなくてはいけないという…。 再処理工場の存在理由がよくわからない。なのに始まってしまう。放射能汚染が既にスタートしたというのに、マスコミは(放射能汚染ということについて)全然扱わないですね。
イラクのことを一生懸命やっている人でも、日本の自分たちの足元で、放射能汚染を起こす工場が稼動したにもかかわず、しかもそれが劣化ウラン弾を生み出す原子力産業のサイクルの一つであるのに、どうしてもそこに目がいきにくい…。そこの難しさが作品をつくっているときもつくってからずっと続いている…。
でもブログにも書いたのですが、友達が見に来て、
「映画をつくるという行為は種をまくのに似ている。種をまく人がいないからまくだ!」と書いてくれたのです。種をまいても芽が出るどうかはわからないけれど、種をまかないことには芽が出ないから、まずまかなければ未来は変えられないと…。
I:

それはとてもありがたい感想でしたね。

K:

そうなんです。私は種をまいているんです。これから5年先、10年先に汚染によって奪われる命があるかもしれない。でも、それを防ぐには、今何かするしかない。それが起きてからではなく、イラクは(劣化ウランの汚染で)こうなってしまったけれど、せめてわかっていることに関しては今からやっていかなければならない。だから種をまいている。

I:

なるほど。見た人が作物を刈り取って新たな種をまくのですね。

K: 映画という種をまいて、見た人がまた自分の種をまくということを期待しているのだけど、まいた種がいろんな花を咲かせればいいなと思うのです。
実は、映画を見た人の間で感想の幅がとても広い、振幅が大きいのですよ。
I: 例えばどんなふうにですか?
K:
例えば、原発推進派にシンパシーがありすぎるという批判から、100%反原発の映画だとか、あるいは客観的にしか描かれていないだとか…。でも、多くの人が自分にとっての選択を迫られたという感想を書いてくれてもいるし…。
I: なるほど…。
K: 現実を見て現実を受け入れる、ということではないあり方を、どういうふうに探すかという難しさがあるわけですよ。
現実に54基の原発があって、再処理工場も2兆2千億円かけて完成して、もう後は動くばかりという状態で、しかも村のほとんどがそのことを自分たちが生きていくためには、仕事が必要だから受け入れた。そういうなかでそれに対して「どうするの?」って、いうことを問わなければならない。そうするとそれに単純に反対だと言っても変らないじゃないかというふうに多くの人は思うだろうし、そう思うことで今の事態が出来上がるわけだから、そこであきらめるのか、あきらめないのかないのかという選択は、私が押し付けることはできない。六ヶ所村の人たちは、その選択を具体的に迫られて、しょうがないんだと言うふうに自分に言い聞かせているんですよね。そのしょうがないんだという部分を私は認めなければと思うんですよね。