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 湾岸戦争とは何だったのか?
 
 1991年1月17日の湾岸戦争から15年。このときからイラクの人々は劣化ウラン弾の放射能に苦しむことになりました。JIM-NETでもこの機会に「湾岸戦争」をもう一度しっかりととらえなおしたいと思います。

湾岸戦争とは?
 1990年8月、イラクはクウェートがイラクの石油を盗掘していることの制裁措置としてクウェートに軍事侵攻しました。これに対して国連安保理は、即時無条件撤退要求を求める国連決議第660号を決議、さらに全加盟国に対してイラクへの全面禁輸を求める国連決議第661号も決議し経済制裁を課しました。しかしイラクは撤退せず1991年、1月17日、多国籍軍が武力行使を行い、2月25日クウェートが開放されました。

問題は、イラン・イラク戦争の後処理
 湾岸戦争前の1980年から1988年まで、イラクはイランと戦争状態(イラン・イラク戦争)でした。戦争が終わってみるとイラクは借金だらけ。戦後復興には石油収入をあてにしていたのですが、この時期にクウェートはOPECの決めた割当量を認めず増産を行い、石油価格の暴落を招いてしまいました。クウェートの行動はイラクの怒りを買いました。
 イラン・イラク戦争の終盤では、アメリカがイラン革命の封じ込めを狙ってイラクに大掛かりな軍事的支援を行いました。サダム・フセインは戦後復興でもアメリカの支援を期待していました。ところがアメリカは、国家安全保障会議の白書のなかで「東西冷戦レベルの軍事費を維持するため、イラクがソ連に代わる対抗勢力である」と位置づけました。
 しかし、サダム・フセイン政権が、中東地域において安全保障上の脅威であっても、アメリカや全世界の脅威ではありませんでした。(イスラエルにとっては脅威!)
 こういった事情を踏まえた上でのアメリカの戦略が「反サダム国際キャンペーン」だったわけです。このキャンペーンでのキーワードは「人権侵害」と「大量破壊兵器疑惑」でした。

イラクがクルド反乱鎮圧に化学兵器を使用したことを非難し、米下院は「イラク技術援助と食料売却をキャンセルする経済制裁法案」を決議
→ 使用した時は黙認。
国務省のレポート「サダム政権人権抑圧は最悪」
1990年英国籍のイラン人ジャーナリストをスパイ罪で処刑
核開発疑惑→イギリスがイラク向け電子スイッチを「核兵器起爆装置である」として押収。イスラエルは「イラクが核開発を進めれば攻撃を受けることになる」と声明を発表。
イラク脅威論が一気に高まりました。

 



 





 これに対し、フセイン大統領は、当時以下のように発言しています。
「中東に、化学・核兵器を持ち込んだのはイスラエルである。イラクは中東に、核・化学・生物兵器の非武装地帯を作ることを提案する。」
「イスラエルの核攻撃に際しては化学兵器を使用してよいと命令してある。もちろんジュネーブ条約には署名しているが、化学兵器が核兵器より危険だろうか。」 
  *1981年、イラクの核開発疑惑の際、イスラエルは戦闘機で原子炉を空爆しました。

 イラクは結局、クウェートとの原油の価格をめぐる交渉がうまくいかず、武力行使に踏み切るわけですが、その前にアメリカにこのことに関して打診しています。
「イラクとクウェートの国境紛争のようなアラブ内部の問題には米国は口を挟まない」と在イラクアメリカ大使は述べています(1990年7月25日)
イラクのクウェート侵攻後も、ブッシュ大統領(現大統領の父)は、「米軍を派遣する計画はない」として国連で話し合いが行われました。

聖地の問題
 サダム・フセインはサウジアラビアとの間には相互不可侵条約を結んでいましたが、アメリカは、イラクがサウジを攻撃する可能性があるとして、米軍を派遣することになりました。
 これは、「サウジというイスラムの聖地に異教徒の軍隊が駐留する」ということで、イスラム教徒にとっての不信感を与え、オサマ・ビンラディンのような対米過激派が生まれることになりました。
 サダム・フセインもそのようなアラブ人の複雑な心境を利用し「聖戦」を打ち出しました。それまで国旗へのコーランからの引用はサウジアラビアだけでしたが、サダム・フセインも国旗に「神は偉大なり」と書き添えました。

撤退への条件 パレスチナとのリンケージ
 サダム・フセインがクウェートからの撤退の条件としてうたったのは、「これまでの安保理決議も関係国に履行させるならイラクも履行する」というものでした。これはアラブ諸国に向けては「イスラエルが撤退するならイラクも撤退する」という宣言に等しいものでした。。サダム・フセインは一躍英雄視されることになりました。(ちなみに、イラクが全面的な大量破壊兵器査察に合意したにもかかわらず2003年の武力行使に日本政府が強く支持を表明したのは、イラクが何度も安保理の決議を履行していないから信用できないという理由。)

  結論
  石油価格をめぐる対立
OPEC内部でイラクとクウェート・UAEが対立→ともかくクウェートがイラクに対して強行(今までイランとの戦争ではイラクがクウェートを守ってやったのに)
  パレスチナ問題
イスラエルとイラクが緊張 (核兵器・化学兵器を用いた大量破壊兵器戦争)  1987年、パレスチナで起きたインティファーダは、戦車に向かって石を投げる子どもたちをイスラエル軍が攻撃するという映像で、国際的にイスラエルは悪者になっていたので、矛先をイラクに向けたかった
  東西冷戦の終結
アメリカの対イラク政策にも戸惑いがあり、イスラエルの戦略にも後押しされて、一気に戦争へ押し進んだ。

 アメリカもメディアを駆使してサダム・フセインを脅威にしてしまったため、退くに退けず、一方サダム・フセインは、アメリカ外交のダブル・スタンダードなどの国際社会の矛盾どを巧みに突いて、アラブの民衆から英雄視されてしまったので退くに退けなくなっていったというのが。湾岸戦争の真実なのかもしれません。
 もともとはイラクとクウェートの地域紛争だったのが、ブッシュ大統領の「イラクが大軍でクウェートに殺到し、サウジアラビアへ脅威を与えた。石油を残忍な人間に支配させておくことはできない」という発言から、石油をめぐり世界を巻き込む戦争へと発展していったのが湾岸戦争だということができるでしょう。

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